41.ゴールデンウィークの涸沢(前半)

5月1日(土曜日)

午前10時37分着のスーパーあずさ3号で松本駅に降り立った私は、朝からほろ酔い気分で駅の階段を登っていた。そう、この特急に乗るときはいつも新宿の駅構内でビールのロング缶2本とサンドウィッチを買い込み、ビールを飲みながら終着駅までの数時間をハヤカワのミステリー物などを読んで過ごすというのが私の流儀なのだ。

わが明峰山岳会の今回の涸沢合宿に参加するメンバーは総勢11名。駅前で予約していた二台の車に分散して乗り込み、一路上高地へと向かう。島々、沢渡、中の湯、釜トンネルを経て上高地のバスターミナルに着くと、この路線を独占するアルピコのバスに交じって、大阪、岐阜、品川ナンバーなど各地からの貸切バスがずらりと駐車していて、観光地としての上高地の人気度をあらためて思う。

河童橋、小梨平あたりはさすがに観光客の人人人であふれ、その中に槍や穂高に向かう山ヤのパーティがちらほらと点在するが、河童橋から約一時間、明神館を過ぎると観光客の人並みは消え、ここからは山ヤの領域となる。

道の両側にはちらほらとフキノトウの新芽が黄色く目に鮮やか。対岸に聳え立つ明神岳の岩壁が、若き日の血の騒ぎをいやが上にも思い出させて話の花が咲き、足は遅々として進まない。というよりもわがパーティは下は63歳から上は75歳まで女性3人を含む平均年齢70歳。小屋泊まりとはいえ五日間の準冬山装備でいずれのザックも大きく、私などはさらに缶ビール半ダースと1.8リットルの焼酎、そして各種食料やロープまで背負っているから久々の重荷に先ほどから息は上がりがちである。

上高地を出発して約4時間、やっと今日の宿泊地である横尾山荘に着く。かつては避難小屋だったこの横尾の山小屋も、今では立派な風呂まで備えたビッグな山荘に変身。涸沢まで1日行程で歩くのがきつくなったロートルパーティにとっては有難い存在である。


5月2日(日曜日)

かつては増水によってしばしば流された山荘前の丸太の橋は立派な吊橋に生まれ変り、橋を渡って横尾谷に入るとそこからは残雪の道となる。昨夜の宴会でなくなったビールと焼酎のおかげでザックはいくらか軽くなったので有難い。残雪の道をしばらく左岸の巻き道を対岸の屏風岩を眺めながら進む。

一ルンゼ、東壁、中央壁、北壁、右岩壁と続く屏風岩の岩壁群。今ではそれらの各壁には数多くのルートが拓かれ、ついにはフリー化されたルートも現れたが、私たちの現役の頃はやっとルート開拓が始まったばかりで、残念ながらこの岩壁に私の足跡はない。後輩たちが右岩壁に明峰ルートを開拓したのはそれから数年後のことだった。

屏風岩を過ぎると横尾谷は本谷との二股に別けて、涸沢までの緩やかな雪渓の単調な登りとなる。連休のさなかだけあって次々と下山する登山者とすれ違うが、いずれの顔も真っ黒に日焼けしている。昨日も今日も雲一つない快晴。私たちも3日後にはこんな顔になって下ってくるのだろうか?

やがて雪渓は大きなカール状に広がり、日本を代表する山岳風景のひとつ、涸沢に入る。ぐるりとカールに囲まれた景観はいつ来ても見るものを圧巻するが、このカールの底に張り付くように建っているのが今日宿泊する涸沢ヒュッテだ。

雪渓の登りでわがロートルパーティは先行組と後続組とにいつの間にか分かれてしまい、元気?な勝沢や私と家内の組は10時半にヒュッテ着。後続組のしんがりが到着したのは12時半だった。74歳になる先輩のCはこの涸沢は40年ぶり、ヒュッテのオーナーの小林銀一さんと40年ぶりの再会に二人は感激の握手握手。

昭和30年代、上高地の明神池の近くに養魚場があった。私たちは穂高山行の行き帰りには必ず立ち寄って時には宿泊もした。ここの管理人をしていたのが小林さんのお父さんで、岩魚釣りの名人でもあった。余談になるがこの頃よくこの親父に可愛がられていた一人の若い女性がいた。そう、この山女が千葉県知事の堂本女史の若き日の姿である。

私たちが若い頃から「銀ちゃん」と呼んで親しくしていた息子の小林銀一さんは、その頃から涸沢ヒュッテの番頭をしていて、今では涸沢ヒュッテと雨飾温泉を経営する会社の会長職にあり、山小屋のオーナーとしては稀有な藍綬褒章も受章した。その銀ちゃんがわれわれが入山するのを知って、前日にヘリコプターで入山していたのだ。

だから私たちが宿泊した二日間、その歓迎振りは半端ではなかった。夕食のテーブルではワインが次々と空けられ、飲み放題。またなんとマグロの刺身(山の中で?)の差し入れまである。ビールも飲み放題で食事を終えて部屋に引き上げるときも、10本ほどの缶ビールがまたまた差し入れられる。そして他の客がカイコ棚の相部屋なのにわれわれは個室が与えられ、スタッフ専用の風呂にまで内緒で入れてくれるという大サービスだった。

午後はヒュッテの広場に造られたテラスで、ビールなどを飲みながらの盛大な宴会となる。生ビールやおでんなどを売るヒュッテの売店では、カモシカスポーツのオーナー、ダンプさんが売り子役をやっていたのが可笑しい。  (2004年5月13日掲載)


42.ゴールデンウィークの涸沢(後半)

5月3日(月曜日)

天気は前線の通過で今日から崩れると予報していたが、予報どおり涸沢はカールの上部はガスっていて何も見えない。しかし計画通り元気印?の6人は北穂高岳に、他は5.6のコルまで登ることになった。北穂高へのルートは無雪期はゴジラの背といわれる南稜か東稜を登るが、積雪期はその中間を分ける北穂沢を直登するルートをとる。

前日までの快晴に残雪はぐずくずに腐っていて歩きにくい。若いパーティに追い越されながらも急な雪渓をひたすら登る。ガスの中にうっすらとマツナミ岩の突起が見えてくると、そこが稜線である。若かりし頃さかんに通った蒲田側の滝谷の岩場は残念ながらガスの中。稜線を右にちょっとの登りで北穂高岳の頂上だ。頂上の標識は雪に埋もれて見えない。ここから少し下ったところの北穂小屋で小休止後、そうそうに下ることにする。

晴れていれば遥か下方のカール底のテント村まで一望できる急峻な北穂沢の下りは高度感満点、ビギナーなら恐怖感におそわれること間違いない。しかし今日は幸か不幸かガスっているので下は見えない。雪渓は途中一箇所、夏の滝のゴルジュのあたりが足元が見えないほどの急な雪壁となる。ぐずぐずの雪なのでアイゼンを履いていてもずるずると滑る状態なので、安全を期してここでロープを取り出す。万一スリップでもしたらこんな雪の状態でも数百メートルは滑落すること間違いない。

ロープは9ミリ50メートル、重いのを我慢して私が担ぎ上げてきたものだ。ピッケルを根本まで刺して勝沢がビレー、私がトップで一杯まで下りロープを張る。後の者がブルージックでつながって下る。この繰り返しで4ピッチ、急な雪壁を抜けて、あとはぐずぐずの雪渓をぼかぼかと登りのトレースを崩しながらヒュッテへと下った。


5月4日(火曜日)

夜半から強烈な風雨となる。朝になれば少しは納まるだろうと期待するが、朝になっても納まる気配はない。覚悟を決めて風雨の中を下山することになる。ヒュッテの入り口まで見送りに出てくれた銀ちゃんと、社長の山口さんに一人一人感謝の握手を交わし、再会を約して別れを告げる。

横尾の本谷との二股を過ぎると雪渓は狭まって、来るときには楽に登れた箇所が、僅か3日のうちに驚くほど雪が解けて、スノーブリッジとなり危険で渡れなくなっていた。渡れそうなところを探して左岸の巻き道を歩く。風はやや納まったものの雨は相変わらずで、着ているカッパも役に立たず下着までびしょぬれ、しかし五月の気候は寒さを感じさせない。横尾山荘の前の吊橋を渡ると、梓川は茶色くにごった激流がごうごうと岩を噛んでいた。きょうの宿は明神の嘉門次小屋、明神に着く頃雨はやっと小降りとなった。


5月5日(水曜日)

前夜の宿は楽しかった。その昔有名な山案内人上条嘉門次の小屋はそのまま囲炉裏部屋として現在も使われ、囲炉裏を囲んで串差しの岩魚を肴に、清酒「嘉門次」を飲む気分は格別である。時代を感じさせる、すすで黒光りした部屋にはその昔、嘉門次が獲った熊の皮や、ウエストンが寄贈したピッケルなどが飾られ、部屋はそのまま重要文化財に指定されているのだ。ちなみに現在の小屋主は嘉門次から数えて直系の四代目に当たる。

嘉門次小屋から上高地までは約一時間、今回の山行の余韻に浸りながら河童橋を渡り、チャーターしたマイクロバスに乗って新宿までの道中を、またまたビールやワインを飲みながら賑やかに帰京した。今回の山行は最初から最後までアルコール漬けの山行で、同行した家内に呆れられてしまった。  (2004年5月20日掲載)


43.酒の話

酒とはなんぞや?酒という字を漢和辞典で引いてみると、意外にも「シ」部ではなく「酉」部で引ける。そして酒は「さけのつぼ」の意の酉と、「水」の意のシとからなり「さけ」の意を表すと書かれていて要領を得ない。そこで広辞苑を引いてみると「米とこうじで醸造したわが国特有のアルコール含有飲料」とあり、やや分かりかけてくる。つぎに酒の法律「酒税法」を調べてみると、ここには単純明快、お役所用語で「アルコール1%以上を含んだ飲料」と定義されている。だからアルコールを1%以上含んでいても飲料でなければ酒ではない。薬用アルコールは、飲料ではないので酒ではない。ちなみに醤油にも相当量のアルコールが含まれているが調味料なので酒ではないのだ。書き出しがやや硬くなってしまったが、自他共に許すビール党である私は、最近ビール以外にも世のブームにあやかって「いも焼酎」や「泡盛」なども愛飲している。

そんなある日、町の小さな酒屋から日本の10指に入る酒問屋にまで会社を成長させた、高校時代の友人と久々に会い、その彼から飲みながら、さんざん酒に関するうんちく話 を聞かされ、一人胸に仕舞っておくのは勿体ない話なので、彼から貰った資料を参考にして、今回は日ごろ何気なく飲んでいる酒についての話を記してみたい。

日本の酒税法では酒税を取る都合から酒類を10種類に分類している。つまり「清酒」「合成清酒」「しょうちゅう」「味醂」「ビール」「果実酒類」「ウイスキー類」「スピリット類」「リキュール類」「雑酒」の10種である。そして「しょうちゅう」は甲類、乙類の二品種、「果実酒類」は果実酒、甘味果実酒の二品目、「ウイスキー類」はウイスキーとブランデーの二品種、「スピリット」はスピリッツ、原料用アルコールの二品種、「雑酒」は発泡酒、粉末酒、その他の雑酒の三品目に再分類される。清酒には特級、1級、2級の三段階があったが平成四年に級別は廃止され、ウイスキー、ブランデーの級別も今はない。級別がないということは税は量とアルコール度数にはかかるが品質の良し悪し、価格には関係がないということである。

さて、焼酎には甲類、乙類の二品種があるが、これは成績の優劣にもちいる甲、乙の意ではない。これまた酒税法をひっぱりだすと「甲類は、アルコール含有物を連続蒸留したもの。乙類はそれ以外のもの」とあり、甲類はほとんど無味無臭に近い。また乙類はあの独特の臭みがあって、そのにおいが嫌だという人も居るが、私などはあのにおいが好きで、アルコール度の強い酒ほどその旨みは奥が深いと感じている。かつて沖縄で奮発して買ったウン万円もする琉球古酒などは、コクの深さといいその旨さは忘れられない。

甲類の製造メーカーは、宝、アサヒ協和、サントリー、合同といった比較的大手メーカーに多く、乙類は、さつま白波、雲海、いいちこ、二階堂、紅乙女、琉球焼酎、泡盛等々、産地が九州、沖縄などに集中している。乙類の原料にはあらゆる穀類が使われ、その穀類を発酵させ、一回だけ蒸留したものが乙類で、その乙類焼酎を連結蒸留すれば甲類となる。また、乙類は麦焼酎を除いて、一次発酵には米を使う。清酒を造るのと同様に米もろみを造っておいて、そこに夫々の穀類を加えてその原料の名を冠した乙焼酎が出来るのである。「甘藷(いも)」「そば」「胡麻」「黒糖」「馬鈴薯」「葛」「栗」「昆布」「ひえ」等等。いずれの種類もビンのラベルに原料名が記されている。

よく本格焼酎と呼ばれることがあるが、これは乙類焼酎のことを指し、甲類よりも歴史の古さゆえの自負といえよう。甲類などの連続蒸留は近代産業で、乙類のような単式蒸留は、アルコール分を含んだ液体、固体を加熱蒸発させ、その蒸気を冷却さえすれば、焼酎、ウイスキー、ブランデー、ウオッカ、ラム、パイカル、テキーラ、マオタイなどが出来、世界中で夫々の土地にふさわしい酒が、その土地に住む人と歴史を共にしてきたといえよう。

麦芽、ホップ、コンスターチ、米と、意外な原料が使われているビール、そして米だけで造られ、あれだけの多種多様な美味をもつ日本酒(清酒)についてのうんちく(又聞きの)はまた次の機会に。  (2004年6月23日掲載)


44.カミナリと豪雨の谷川岳(前半)

7月17、18日、そして24、25日と二週続けて週末に谷川岳を登った。前の週は所属する山岳会の75周年記念と同山岳会の物故者の慰霊祭を兼ねてのもの。土合の谷川岳遭難碑と慰霊塔のある広場前で、総勢34名の会員が集まり、慰霊祭の後、土合山の家でのにぎやかな宴会。最年長者の88歳から下は60歳代という先輩、後輩の差はあっても何十年も続いている山仲間の絆は、和気藹々どんな飲み会よりも楽しさは格別だ。

翌日はロープウエイで天神平へ、天神尾根から頂上へ登るパーティと天神平散策班とに別れ、私は17名の仲間とともに頂上へと向かう。前日の宴会、それに続く二次会でしたたか飲んだせいで完全な二日酔い状態だ。それでも高度を稼ぐに従ってアルコールは徐々に抜け、無事に頂上に着いたときは体はすっきりと回復していた。しかし頂上はガスの中、眺望はゼロだった。それにしてもロープウエィから気軽に登れる天神尾根の人気は凄い。ナントカ山岳観光といったワッペンをつけた百人以上の団体が行列をつくって登ってくるさまは、まさに壮観である。下山後、再び合流した仲間たちは、水上温泉の湯につかって夫々の疲れを癒し、お互いの健康と今後の山行への思いを語り合っていた。

さて、翌週の山行は先週ののんびり山行とは打って変わって、ハードな岩壁登攀である。私が今年から代表を任されている「グループ山想」の主催による、来る8月21、22日に予定している名づけて「コップ・フェステバル」の整備山行なのだ。1958年6月、谷川岳一の倉沢の岩壁登攀でそれまで未登だった、コップ状岩壁が二つの山岳会によって同時に二つのルートから登られ、一の倉の岩壁初登攀の歴史に終止符がうたれた。圧倒的な大ハングによってこれまで登攀を拒否しつづけてきたこの岩壁が、ついに登られたのである。この登攀はこれまで日本では使われたことのない埋め込みボルトが初めて使用され、当時の岳界にセンセーショナルな話題を提供し、日本の岩壁登攀史上、エポック・メーキングともなった記録でもある。(徒然岩35話。(第35話「名クライマー松本龍雄さんの誕生会」参照)

「コップ・フェステバル」とは、このときのそれぞれのルートの初登攀者である、松本龍雄さん(雲表ルート)と大野栄三郎さん(緑ルート)に、実に46年ぶりに再登してもらおうという企画なのだ。お二方とも今年72歳ながらまだ現役の元気印クライマーでもある。今回の整備山行とは、この夫々のルートをより安全に登ってもらうための、プロテクション用の支点の打ち変えの作業のためである。一の倉の出会いから眺めると、圧倒的な大岩壁が正面に聳え立つ。深くえぐれた本谷の左手に、左から烏帽子沢奥壁、衝立岩正面壁、そしてその右手にこれらの壁の登攀終了点近く、一段と高いところにある大ハングがコップ状岩壁である。したがってアプローチだけでも4時間近く掛かってしまうこの壁は、いまでは殆ど登るクライマーがおらず、支点のボルトも腐っていて安心できない。

この整備山行のメンバーは、初登攀者で今回再登の当事者であるリーダーの松本龍雄さん以下、鹿野彰(60歳)、宍戸克治(60歳)、本間美知子(55歳)、勝沢洸(68歳)、寺倉忠宏(69歳)の六名。今回の整備にはあえて若いメンバーを外して本番の登攀隊に加わる予定のメンバーのみで構成した。土曜日に先行した勝沢と私は、あらかじめアプローチとなる衝立前沢の大滝に、帰途の懸垂下降用のボルトを打ちに出かける。従来の手打ちによるボルト作業では、時間的に、はかがいかないため電動ドリルを使うことになり、あらかじめ杉野保プロにメールで、拡張型のグージョンなどを使っての、電動ドリルでの支点の打ち方などの教示をあおぐ。

しかし保っちやんから、「人工登攀のボルトラダーを、電動ドリル使用によるボルト打ちには倫理上問題があるのでは」など貴重な意見をもらったが、今回は整備の日数短縮の都合であえて電動ドリルを使用するもので、新規の開拓ではないのでまあ、大目に見てもらおう。そして支点もグージョンは使わず、総てハーケンとリングボルトを使用することとなる。電動ドリルは元トラルクライマー仲間の金子君が、ボッシュの強力な24Vのハンマードリルを持っていたのでこれを借りた。

7月後半まで例年なら出合い近くまで残っているはずの雪渓が今年は驚くほど少なく、衝立前沢は沢沿いには取り付けず、左岸の草付きの高巻き道を行くことになるが、急傾斜に岩と草と灌木のミックスしたこの獣道のようなルートは悪く、最後のトラバースではロープを使わなければ危険で通過できないほどだ。約20メートルの大滝の右側をフリーソロで登り、落ち口にある岩に早速下降用のリングボルトを打ち込むが、怖るべきボッシュの威力、手打ちなら20分位掛かる穴あけが僅か10数秒であっさり穴が開いてしまう。

夜になって到着した松本さんら後発の四人と合流し、一の倉出合いの手前にある避難小屋に仮眠、翌朝4時半、コップへ向かって出発する。前日のルートを辿って大滝を経てから、衝立前沢の急なゴーロ状を登るアプローチは蒸し暑く、大汗を掻きながら略奪点を経て、ここからはコップ岩壁の基部までスラブの登りとなる。若い頃にはノーザイルで登ったこのスラブも、メンバーの年齢構成を考慮、より慎重を期してここでロープを取り出し、50メートル一杯に伸ばして5ピッチでコップ状岩壁の基部に着く。

整備作業は、右手の雲表ルートに松本、勝沢、本間、寺倉。左手の緑ルートは元緑山岳会の鹿野、宍戸がそれぞれ支点整備に入る。ここでも電動ドリルの威力は凄い。午後2時、なんとなく雲行きが怪しくなり、ハング下までの作業を終え、早めに帰途の下降に入る。1ピッチ目の50メートルの懸垂下降は松本トップで、後に続く5人が次々に下降している最中に、ポツポツと降りだした雨が突然のゴロゴロという雷鳴とともに、激しいものとなる。  (2004年8月1日掲載)


45.カミナリと豪雨の谷川岳(後半)

ピカッという稲光とともにゴロゴロ、バリバリッという物凄い雷鳴が頭上に鳴り響き、豪雨が間断なく降り止まない。よくバケツをひっくり返したような雨、と表現されるがまさにそれである。対峙する白下門との空間、我々よりも低いところでビカビカといなずまが走って1〜2秒の間にバリバリッとくる。カラビナやヌンチャク類、それに鉄製のハンマーを持っている我々は壁の真ん中で逃げようもないのだ。特に6人が一箇所に集結したときなど、各自が持っている金属類を考えると、いつ落雷してもおかしくなく、恐怖感で体が縮まる。しかし人間って不思議なもので、こんなカミナリにも次第に慣れてきて、豪雨の中を2ピッチ目、3ピッチ目と下降を続ける。

広範囲のスラブの凹状部分は総てあっという間に滝化し、ゴウゴウと激流が走る。凸状部分のスラブを選んで下降するが、時には轟々と落下する水流の中をシャワークライムダウン。しかしあまりの激流にしばしば立ち往生。さらにスラブの途中で引っかかっていた浮石が、水流におされてビュンビュンと落下してくる。時にはこれがカツーンとヘルメットに当たり生きた心地がしないが、中には頭大のものもあって、これが直撃したら命に係わること間違いない。

そのうち豪雨の中に雹が混じりだし、びしょ濡れの体はたちまち寒さで震えだすが、如何ともしがたい。こうして50メートル、5ピッチの懸垂下降がやっと終了し、略奪点まで着くと、危機を脱出できた安堵感で全身から力が抜ける。9ミリのロープ4本のうち、2本を繋いで50メートル一杯までのロワーダウン。最後尾の者が引き抜いたロープを前者が背負って下り、次の下降点をセットする。この方法で6人での5ピッチの下降だから時間がかかるのは仕方ない。まして9ミリのロープは水浸しのため、下降中にゴムのように伸びるので,左右に振られたりして厳しい。 

皮肉にもこの頃やっとカミナリも雨も収まり、衝立前沢のゴーロ状の急な沢を下る。沢身はゴウゴウと水流が激しいが、奥ゆきのない狭い沢なので水量は大したことなく、その中をジャブジャブとひたすら下る。すでに真っ暗闇のなか、ライトを照らしながらの下降が続く。大滝では昨日打ったボルトを支点にここは懸垂下降して、いよいよ最後の悪場、高巻きのトラバースに入る。来るときにフィックスしたロープを伝って、ちょっとした広場に出、ここから灌木帯の中から始まる踏跡をトラバース気味に下るのだが、松本さんと私とが二度ほどロープを着けてトライするも、ライトの明かりではこの踏跡がどうしても見つからない。時刻はすでに11時を回っている。

「よしここでビバークする」リーダー松本の決断は早い。全員びしょ濡れで、もちろんツェルトもない。またここは携帯電話も通じない場所だから連絡も取れない。「全員疲れているし、たとえ道が見つかってもこの状態で行動すれば、誰が事故っても不思議ではない。家族に心配されても生きていることが一番だよ」過去に数多くこんな体験をしているベテラン名クライマーの言葉は重い。すでに我々の行動は18時間を超えていた。しかし考えてみると今日のルートの中でここしか6名全員でビバークできるは所はなかったのだから、「まさに神の助けだ。」と誰かが言った。

都会では酷暑と熱帯夜のこの夜、我々は皮肉にも逆にぶるぶる震えながらのビバーク。しかし夜明けまでは僅か5時間半の我慢だ。こんな状態のビバークでも皆ベテランのクライマーたちだから、まったく不安はない。ふと見上げる空はすっかり晴れて満天の星が瞬いていた。夜明けとともに、昨夜見つからなかった踏跡も簡単に見つかり、4ピッチのトラバースでこの悪場を抜け、午前6時、全員意気軒昂無事に出合いまで下った。

登山指導センターに寄り、無事下山の報告を済ませて車で下ってくると、慰霊塔前の駐車場に遭難救出用の県警のヘリが降りてくる所だった。あの雷雨の中で西黒尾根で滑落事故が発生、また天神ロープウエーも落雷のため、5時間もの運休があったとか。私のこれまでの長い登山経験の中でも、岩場の真っ只中での、今回のような激しいカミナリと豪雨の体験は覚えがない。  (2004年8月7日掲載)


46.谷川岳集中登山とコップ・フェステバル

「こちらJN3VFI、グループ山想の上坂です。万太郎班、感度ありましたら応答ねがいます。」
「こちら万太郎班、感度良好です。どうぞ。」
「万太郎班、頂上待機の上坂です。現在位置を教えてください。どうぞ。」
「万太郎班了解しました。現在オキの耳まであと100メートル、ただいま最後のガレ場を登攀中です。」
「OK、上坂了解しました。」
そう、これは先週行なった「グループ山想」の谷川岳集中登山での、アマチュア無線による各パーティ間のやりとりのひとコマである。

「グループ山想」とは、その昔活躍した岳人たちの有志によって、平成10年に、日本の登山界におけるすべての垣根を超越して、ただ山を愛する人たち、あるいはかつて山を愛した人たちの間の親睦交流と、情報交換を意図として設立され、「G山想」という親睦交流誌を、これまでに創刊号からはじまって第6号まで刊行している。日本の山岳界で活躍してきた、著名なベテラン登山家たちが数多く寄稿しているこの誌の愛読者は現在、年齢、性別、国籍、所属団体、過去の山歴等に一切関係なく趣意に賛同してくれた会員数が、全国で約400人ほど登録されている。

またグループ山想では年に1回、夏の谷川岳に尾根筋から、谷筋から、岩壁から、頂上の集合時間に合わせての集中登山を実施、今年が第六回目となる。しかし今年の集中は、事務局の準備の遅れなどで、参加者は約40人とやや小粒な集中登山となり、私も第一回目から参加、これまで一の倉の岩壁や、尾根筋から頂上に立ってきた。だが今年は頂上まで登らず、本部の置かれた天神平のロッジに詰めて、各班から聞こえてくる無線に耳を傾け、無事全員が頂上に立っての、集中の成功を祈っていた。ただ一つ残念だったことは、同時に実行されるべく準備してきたコップ・フェステバルが来月まで順延されてしまったことだ。カミナリと豪雨によりビバークまで強いられた整備山行(前回の徒然岩参照)でルートが完備されないため、私は勝沢とともに毎年お盆休みの恒例だった小川山行きも返上して、先週のこの期間、またまたコップの整備のため一の倉に入った。

今回は前回のメンバーの他、緑ルートの初登攀者、大野栄三郎さん(72歳)も加わる。フリークライミングをやらない大野さんは、私たちが略奪点からスラブの登攀に備えてフラットソールの靴(私は後でこの靴でひどい目にあう)に履き替えている時、ザックからワラジを取り出して、おもむろに足に着けていた。そう、昭和30年代の岩登り、特に一の倉の岩壁にもっとも威力を発揮したのはこのワラジなのだ。私たちはよく丹沢の沢登りの帰途、一回の遡行で捨てられたワラジを拾い、これを一の倉で使ったものだ。面白いことに上越製のワラジよりも、この丹沢のワラジのほうが岩場で威力を発揮したためだった。乾いたスラブを快適に7人が繋がって登る。トップを行くジョーこと宍戸君のリードはまったく危なげない。このジョー、「このメンバーでくると俺が一番若くてなんでも言うことを聞かなければならないので参るよ!」とこぼす。彼だってもう還暦だというのに。

出合から約5時間、午前10時にハング下の広場に着く。お盆休みは天神のロープウエー駅から先は交通規制で一の倉まで車で入れないため、私は翌日西黒尾根を登る家内を伴って、あらかじめメンバーの荷物を預かり、12日中に車で一の倉のテント場まで運んでおいた。フィックス用のロープ150メートル、電動ドリル、登攀用のロープ、ボルト類、そして一日で終らない場合に備えて、広場でのビバーク用ツェルトや食料、水を各人分担して担いでいるので、皆重荷にあえぎながらの登攀となる。しかも時間を稼ぐため、トップがロープを固定すると後発の全員がケーブルで繋がって登るため、ユマールやブルージックをロープにセットして登る。私はここで借りた親指大の小さな金具(ペツル社製、名前は判らず)をカラビナでロープに噛ませて登るが、これがすごい威力だ。ちょっとでも重心が掛かるとそこで体がストップして、墜落の危険がない。そして登っている最中はブルージックのように途中で引っかかることもなくスムーズにロープを走るので、その存在さえ忘れるほどだ。私は普段あまり山の道具屋に行かないので、こんな便利な道具が開発されたのも知らなかった。

しかしトップが広場に着いた頃から、嗚呼、またまた雨が降り始めてしまった。ツェルトやフライを出して雨を避けながら今後の行動を打ち合わせる。協議の結果、せっかくここまで登ったのだから、せめて雲表ルートの核心のハング下までのボルト打ちをやることになる。指名されて若い?ジョーと勝沢が作業でここを登ることになった。壁の取り付きは勝沢トップで濡れた逆層を微妙なバランスで登り出す。ハング下にアブミを掛け、これにぶら下がって4.7キロもあるハンマードリルを操って壁に穴を穿ち、リングボルトを打ち込むのだが、ここでは勝沢が私など足元にも及ばない力を発揮する。「彼はスーパークライマーだよ」下でビレーしながら、名クライマー松本さんが感心して見上げている。さいわいハング下なので彼らには雨が当たらずに作業は続くが、間断なく降り続く雨は止みそうもない。今回は雨だけでがカミナリはないので気は楽だ。しかし明日の天気はもっと悪くなるという予報に、残念ながらここで作業は打ち切り、明日のためのビバークも中止して下ることになる。

ところがここで私は思わぬアクシデントに見舞われる。下降に備えて靴のひもを結びなおしながら、ふと気がつくと、なっなっなんと、片方の靴の底のゴムがパカパカに剥がれかかっているではないか。私の履いている靴はファイブテンのバーチカルというクラシックモデル、以前軽登山靴の底が剥がれた経験はあるが、フラットソールのクライミングシューズが剥がれるなんて聞いたことなかった。しかもスニーカーに履き替えようにも、スニーカーは略奪点にデポしてきたため、代わりの靴はない。一人がガムテープを持っていたので、これを借りて剥がれかかった部分の応急処置後、誤魔化しごまかし50メートル、5ピッチのロワーダウンが始まる。さいわい雨は前回のような豪雨にはならず、スラブが滝化することもなく、全員無事に略奪点に着く。私の靴はここでスニーカーに履き替える時にはガムテープもなくなり、もう片方の靴の底も全部剥がれていた。購入してから十数年経っていたから多分ゴム底を貼った糊の経年劣化であろう。でもこれがホンチャンの登攀中でなくてよかった。

そして今回は帰途、あの悪い草付きのトラバースに、3ピッチのフィックスを張りながら、7人全員が足元の明るいうちに、無事に一の倉の出合に戻ることが出来た。この結果、またまたコップ・フェステバルは来週の集中日には間に合わず、来月に順延となってしまっのだった。  (2004年8月26日掲載)


47.「追われ者」読後感想文 (その1)

最近の読書のなかで、大変興味を引かれた一冊の本がある。東洋経済新報社刊、松島庸著「追われ者」という本である。著者は1973年生まれ。武蔵大学を中退して1995年に、弱冠22歳でインターネット関連のベンチャー企業を立ち上げ、僅か5年後の2000年には同社を日本の企業として初めて米国のナスダック、東証のマザーズと日米同時上場をはたし、上場企業社長としての最年少記録を更新する。しかし2001年、大株主との対立激化により同社を追われる。

この本は、若い仲間たちとの企業立ち上げの準備段階から、またたく間にに急成長してゆくサクセス・ストーリーにはじまって、上場による資金調達など順風満帆だった企業の経営者が、ついには大株主の巧みな乗っ取り策によって会社を追われるまでを、本人自らが、生々しくつづったドキュメントである。インターネット・ビジネスをどのようにして急成長させ、そして僅か数年にしてなぜ社長の座を追われなければならなかったのか。まさに時代の最先端を行くIT産業界の一つの事例として、感想も含めながら「追われ者」の内容についてダイジェスト風につづってみたい。

今から数年前、当時インターネット関連株の異常な高値が話題となっていた。わけても日本のインターネット企業が米国ナスダックに上場、日本株に換算すると一株なんと9000万円もの値をつけ、上場によって投資家から調達した事業資金が240億円にも上ったという会社があった。当時、私は日本経済新聞の朝刊に載ったこの記事を興味深く読んだ記憶があるが、そう、この企業こそこの本の主役、若き松島社長の率いる株式会社「クレイフィッシュ」だったのだ。クレイフイッシュとはザリガニの意で、泥の中でも逞しく繁殖してゆくこのザリガニの姿を、巷にインターネットを普及しようという企業イメージとして採用したのだという。

インターネット産業といえば、情報検索サービス最大手として莫大な広告収入を得る「ヤフー」や、インターネット通販ショップの「楽天」、そしていま野球界に参入を企図する「ライブドア」などの名前がすぐに思い浮かぶが、このクレイフィッシュの創業当時は、日本でのインターネットの普及はまだまだの頃だ。無論当時の中小企業でインターネットを導入している企業などほとんどなかった。若い社長の松島を中心にして創業時彼らの考えたことは、そうした中小企業に対してのインターネット普及事業だった。当時の最先端のインターネット・プロバイダー、東京インターネットと接点をもち、東京インターネットがサーバーを負担し、クレイフィッシュはサービスの構築から運営、顧客のサポートまでの総てを行なうという分担で、売り上げの二割を取り分としてもらうという方式からのスタートであった。

しかし、次第にインターネットのノウハウが膨らんでくるとともに、彼らはいつまでも東京インターネットの下請け会社に甘んじていることに我慢できず、独立したホスティング・サービスの会社を目指し始める。だが、そこには急成長の会社につきものの資金難という問題が大きく立ちはだかってくる。そしてこの頃、中央監査法人(現中央青山監査法人−知ってる人は知っている−)との出会いがあり、いろいろな支援やアドバイスを受けつつ、そうした中から資金の調達をベンチャー・キャピタルに出資してもらおうという方向に目を向けてゆく。こうしていくつかのベンチャー・キャピタルが候補に挙がり、取捨選択の後、資金提携を図った会社が「光通信」であった。

「光通信」。東証一部上場で現在でも携帯電話とコピー機などの販売で、年商1000億円、経常利益も100億円という堂々たる会社である。 しかしこの光通信、いま日本の会社の中でも一二を争う、"たびたびマスコミの批判を浴びる企業"としても名高い。すなわち労働基準法違反、不正行為、迷惑電話、大量採用、大量退職、グループ会社の社名変更しまくり・・・・等等。ちなみに2chというHPの掲示板には「ここだけは就職したくない企業」というタイトルで、一日に100件近い投書がなされているので一見するとその実態が良く分かる。・・・続く  (2004年9月12日掲載)


48.「追われ者」読後感想文 (その2)

この光通信、1965年生まれの若き経営者、重田康光によって1999年に店頭上場、このとき重田氏34歳。一時株価が一株24万円を上回り、時価総額6兆円企業として話題を呼んだが、2001年、「寝かせ」(売っていない商品を売ったことにする)などが発覚して業績を大幅に下方修正、経済界のひんしゅくをかって、一時経営破たんの危機に見舞われるが、社長個人の資産注入によって危機を脱出するという経緯を持つ。

実は私も、過去にこの会社にはひどい目にあったことがある。しつこい電話アポと訪問によってコピー機を進められ、いま他社のコピー機をリース中だと断ると「そのリースの残存料金はうちで持ちますし、コピー紙もリース期間中は無料提供します」のトークにごまかされて契約したところ、肩代わりしたはずのリース料は払わておらず、コピー紙代も巧みにリース料金の中に含まれていたことが後になって判明。これはサギだと会社にクレームをつけるものの、「もう担当社員は辞めてしまっていて、その社員が勝手にやったこと、当社に責任はない」との一点張り。なにしろ離職率が入社3ヶ月以内で95%、営業マンは早朝から終電ぎりぎりまで尻をたたかれ、売れるまで帰ってくるな。という猛烈な会社だったから、このようなサギにひとしい営業が日常茶飯事だったのだ。

”光通信”といえば、いまNTTの光ファイバーによるインフラなどで知られるが、この会社の社名の場合は、携帯電話の販売の"通信"に創業者の名前の一字"光"を付けただけ。しかしこの社名は時流に乗って営業面、また人事募集の面でもプラスに作用してきたことは間違いない。

さて、クレイフィッシュの松島は、当時1000店以上あった光通信の販売代理店「ヒット・ショップ」の携帯電話タダ配りなどの強烈な商法や、従業員が1000人以上という”大きな会社”、そして重田社長の持つカリスマ性とその勢いなどの魅力にはまり、この会社との提携ならと強い確信を抱く。そして強い営業力をもつ光通信との販売面での提携も行うが、これが後になっての命取りになるなどこの時は予想も出来なかったのである。

提携に当たって、重田、松島両者による合意の様子を「追われ者」の中で松島は次のように書いている。『・・・私は用意していた答えを重田氏に言う。「電子メール使っていますか、メールアドレスは名前@自社名.co.jpという独特のドメインですか、ドメイン名は早い者勝ちですよ。これなら10秒で説明できますよ」私の言葉に重田氏が興奮しだした。「うん、それなら、いけるかもしれない。面白いかもしれない。売上高は、こんな感じかな」と、立ち上がって、ホワイトボードに、右肩上がりのグラフを描いた。すかさず、私は、重田氏の描いた線を越える成長のグラフを書き出した。「こんぐらい、いくんじゃないですか」「いや、インターネットが本当に普及するとなると、こんなにいっちゃうかもしれないぞ」と、重田氏は私の描いた線よりも、大きな成長率のグラフを描く。グラフはホワイトボードをはみだし、ホワイトボードの枠にまでインクがついた。横軸にも縦軸にも、何も描いてないグラフだが、「この事業は凄いぞ」という「ノリ」で二人は一致した。「すぐに、担当の役員をつけます。その役員に全面的に任せるので、話をして進めてください」。重田氏のゴーサインが出た。・・・』・・・続く  (2004年9月21日掲載)


49.「追われ者」読後感想文 (その3)

こうして営業面での提携事業が決まり、全くインターネットを知らない法人を顧客相手とした、名付けて「ヒット・メール」の販売が光通信の営業網によって全面的に始まる。携帯電話の販売に慣れてはいても、パソコンやインターネットの知識のない"素人集団"による営業に当初は不安感を抱いていた松島も、その後、目覚しい勢いで伸び続ける光通信の営業力に安心する。また両社の取引契約条件も、ヘビーな価格交渉を覚悟していた松島に対し、こちらの言うなりの条件がすんなりと決まり拍子抜けする。しかしこれは光通信の常套手段であることが後で分かる。営業が軌道に乗り、売り上げが伸び始めると、つぎつぎと厳しい取引条件の改定を求めてくる。拒否しようものなら「じゃあ、わが社は売ってやらないぞ」という"どうかつ"が入るのである。こうしてその後のあの手この手と巧みな光通信の圧力の様子が、この本の中ではこと細かく書かれている。

一方でクレイフィッシュの事業のほうは光通信との提携が、”アウトソーシング活用の好例”として評価され、売上高も1999年に11億円、2000年には60億円にと飛躍、「ネット系ベンチャーの本命」と証券会社の間でも話題に上がり始め、ここで上場に向けての準備が始まる。 そして上場は冒頭でも触れたように、日米両国同時の上場が実現する。

しかし光商法の「寝かせ」の実態が白日のもとにさらされ、社会批判を浴びて光通信株があっという間に百分の一に下落するとともに、それに連動して一時5000万円の高値をつけたクレイフィッシュ株も、2001年12月にはなんと僅か35万円にまで下落、全米の株価上昇企業の第10位にランクされたものが、下降率でも上位を記録するという皮肉な結果となる。

やがて発覚してくる数多くの架空販売、強引な契約による解約の続出、「光通信叩き」の嵐の中で、提携企業への同罪的な社会批判等々のマイナス要因に、遅まきながらやっと気づいたクレイフィッシュは、他社との販路を求めて探し始める。しかしもうドップリとつかった光通信との提携がネックとなって、いずれの交渉先からもすべて断られてしまうのである。

そこで松島が一大決断したのは光通信との業務提携の解消だった。つまり光通信の営業とは全面的に手を切り、独自の販売を目指した顧客の買取りである。しかしこの買取価格に対する両社間の開きがネックとなり、度重なる交渉の結果、やっとクレイフィッシュ側の言い分にうなずいた光通信は、その代償として大株主としての要求を打ち出してくる。すなわち期限付きの業績の建て直しである。これには社長を含めた役員の更迭問題も条件の中に打ち出されていた。こうして光通信との提携解消に明け暮れる間に、同業各社が法人向けホスティング事業に参入、値下げ競争の激化によって「ヒット・メール」の業績は悪化していたのだ。

紆余曲折を経てやっと光通信から離れた後、個人向け商品の開発など、クレイフィッシュ独自の商品開発をいろいろと画策するなか、提携解消後も次々と発覚してくるクレームとその苦情処理に全社員が追わる。「ある日突然、債権を譲渡しましたという手紙が光通信から送られてきて、ヤクザまがいの取立てがきた」などの苦情の多発であった。こうして苦情処理に追われ、残された約束の時間はますます逼迫してくる。しかも類似商品は扱わないと約束したはずの光通信の営業による、裏で行われていた「ヒット・メール」の販売の発覚など、これらは役員間の疑心暗鬼にも繋がってゆく。業績の好調時には問題ないが、後ろ向きのデメリットが続くと、とかく社内の人間関係がおかしくなることは、私も過去に経験しているだけに、この頃のクレイフィッシュの社内紛争の様子は、読みながら身につまされよくわかるのだ。

こうした状況は若さと未経験による松島にはなかなか対処できない。打つ手打つ手がことごとく裏目に出て焦りにつながっていった。そして新たに模索し、是と判断した、あるグループ企業への融資問題がそのまま予測判断の甘さとなって落とし穴となり、この失敗について監査役からクレームがつき、このときのゴタゴタ劇がついにクーデターへと発展してしまう。

この本の後半は、ことの経緯についての一部始終に大半のページが費やされている。監査役との確執、誤った人事、落ちいったサギの罠、ついに投げられた大株主光通信側からの「差し止め請求書」などの圧力、そして最後に辞任に追いやられるまでに至る、ドロドロとした経緯についてはこれ以上書くのはやめる。

本のあとがきの最後に・・・・「今回の件は残念だった。君に才能はある。頑張れ」と手紙をくれた重田氏や光通信に率直に礼を言える気持ちはないが、将来、私が再生できて世間も認めてくれたときには「私が育つきっかけを与えてくれてありがとう」と言えるようになるのかもしれない。そのときの到来を目指して・・・・という著者のことばを紹介して、「追われ者」の読後感想文を終わることとする。著者の松島庸氏は現在、再起を期して一人会社の社長として孤軍奮闘中と聞く。・・・完  (2004年9月28日掲載)


50.日本山岳耐久レース(前半)

10月10日〜11日に行われた東京都山岳連盟の主催による「日本山岳耐久レース長谷川恒夫CUP」に参加した。参加したといっても競技に出たわけではなく、裏方の役員としての参加であった。このレースは毎年10月、体育の日に合わせて奥多摩の山域で挙行され、今年で第12回目を迎える。年々山岳レースを楽しむ全国各地からのエントリー数は、今年、韓国の招待選手2名を含む、下は16歳の高校生から上は77歳の最年長者まで大会史上最大の2000人余りの応募という、山岳アドベンチャーレースのとどまることのない人気に驚く。

競技は全行程71.5kmという山岳コースを24時間以内に走破するもので、この競技がどの程度過酷なものかということは是非奥多摩のマップを開いて想像していただきたい。あきる野市五日市の五日市中学校のグラウンドからスタート、以下、今熊神社→市道山→醍醐丸→生藤山→土俵山→笹尾根→三頭山→御前山→大岳山→御岳山→日の出山→金毘羅尾根→五日市会館ゴールの71.5kmを走破するのである。

土曜日の台風の真っ只中、ワイパーを最速にしてもなお前方が見えないほどの豪雨の中を車で五日市へと向かう。選手のスタート時間は翌日の午後1時だが、大会役員の全体会議が今夜の7時から開始されるためである。6時ごろ会場の五日市会館につき、受付で役員用のピンクのユニホームジャンパーやプログラムなどをもらい、会館の中に入ると早くもいろいろな準備作業で中はゴッタ返している。

なにしろ2000人近くもの選手が夜を徹して山岳コースを走るわけだから、その裏方の仕事も半端ではなく、大勢の人数を必要とし、今年は250人近い役員が招集された。実行委員会は運営グループ、競技グループ、総務部などに分かれてそれぞれに役割をこなすのだが、私の所属は競技グループのなかの運送部というセクション。

運送部の業務は何かというと、役員、機材の搬送、駐車場管理、グランド管理、コース整備作業の協力などもあるが、その主たる仕事はリタイヤ選手の搬送である。早い話今年は参加者が多く、リタイヤする選手も多く予想されるから手伝ってほしいという、リタイヤ選手搬送の゛運ちゃん゛として雇われたわけだ。雇われたとはいってもボランティアだから支給されるのは4000円の交通費と、帰途のガソリンが満タンにできるだけだ。

選手が競技を途中棄権したときの下山コースは予め決められたコース以外に勝手に下山できない。最初が浅間峠→上川乗駐車場、以下、西原峠→数馬、鞘口峠→都民の森駐車場、月夜見第二駐車場、大ダワ→神戸岩駐車場、長尾峠→御岳沢林道の6箇所である。だから選手はリタイヤをするときは早めに決断しないと、つぎの下山コースまでが遠いのでえらい目にあうことになる。

10日午後一時、いよいよスタートである。台風の影響もあってかキャンセルも多く、実際にスタートした選手は1549名。スタート順は自己申告によるゴールタイムの早いグループからとなり中学校のグランドは長蛇の列、ランニングに短パンのマラソンスタイルから雨具で完全装備した者まで思い思いのスタイルだが、水2リットル以上、雨具、行動食、防寒具、ヘッドランプが必携装備品として義務付けられている。出場選手の中には私の顔見知りの者が何人か居たが、その中にわがトラル軍団の松野義政君の姿もあり「今年は完走します」と張り切ってスタートして行った。  (2004年10月14日掲載)